ボクは昭和30年の中盤に生まれ、昭和の終わりに就職した。時はバブル真っ最中だったが、初任配属が東北の地方都市だったこともあり、そのころはバブルを感じたことはなかった。しかし3年たって東京に転勤したときは、夜のご接待の後のタクシーがつかまらなくて困った覚えがある。下っ端の社員はご接待中、食事をする間もなく「ピンク電話」にかじりつきタクシーの予約電話をかけていた。
当時の自分は、まだ自分がうつ病であるという認識はなかった。
高校3年生の時、部活を引退した夏から虚脱状態になり、受験のプレッシャーもあって半分不登校の時期があったが、今の時代なら「心療内科に行きなさい」とアドバイスされるほど心は不安定だった。制服を着ての下校途中に酒屋で堂々とワンカップ大関を買い、紙袋に入れてカップを隠し、三級河川の割には整備された川の堤防を歩きながら飲んでいた。
いかれてたと思う。
浪人中も、夜中の2時まで勉強した後、家にある日本酒をコップになみなみと注ぎ一気に飲み干してからインスタントラーメンを食べ寝ていた。
継続的な飲酒はその頃から身についていた。
大学に入学してからは、一種の燃え尽き症候群と五月病と、あまりにもつまらない数学の講義など、新生活とほぼ同時に急降下し始めていた。飲酒に走る度合いも強まった。一人暮らし(とは言ってもトイレとキッチン共同の四畳半)で、お酒は部屋で人目を気にすることなく飲み放題だったこともある。
だいたい2日くらいでウイスキーのボトルを開けるような生活。そして少し時代錯誤な「学生運動」との関係。
ボクのある意味奇妙な、大学生活が始まった。鬱とアルコールがセットになり目標も展望もない自堕落な大学生活が。
続く。

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